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経験的症候群別予防策(Empiric and syndromic precautions)
「経験的抗菌薬治療(empiric therapy)」は皆さん聞いたことがあるでしょう。経験的に予測される菌に対して、それをカバーする抗菌薬を開始する、という意味ですね。一部の研修医の先生などはたまに誤解していますが、「経験的抗菌薬治療」≠「広域抗菌薬を使う」ですよ!ここは実は大きな違いですが、本論と外れるので今回は割愛します。
「経験的症候群別予防策(Empiric and syndromic precautions)」は聞いたことがあまりないかもしれません。しかし、2020年の東京オリンピックなどのマスギャザリングイベントで有効と考えられる、ぜひ知ってほしい感染予防策です。
一言で説明すると、症状(症候群)から感染症を経験的に類推して感染予防策を施す、ということです。
今回は「平時の」感染予防策の復習と、「マスギャザリングイベント時の」経験的症候群別予防策について皆さんに知っていただこうと思います。
【平時の感染予防策】
十分知っているよ、という方は【経験的症候群別予防策】まで読み飛ばしてください。
感染予防策には、すべての患者を対象として行われる標準予防策(Standard precaution)と、病原微生物の特徴に応じて標準予防策に追加して行われる感染経路別予防策とがあります。
標準予防策は、
- すべての患者に触れる前、触れた後には手指衛生(流水による手洗いorアルコール剤による手指消毒)を行う
- 患者体液(血液、唾液、痰、涙、鼻汁、耳汁、胃液、尿、便、精液、膣分泌液など)及び粘膜、正常でない病的な皮膚に触れる場合には手袋を装着
- 手袋の着脱の前後は手指衛生を行う
- 患者体液で衣類が汚染される場合にはガウン等を装着
- 患者が咳をしている場合には、サージカルマスクを装着
です。大切なのは「すべての」患者という点です。知識だけでなく常日頃からこれをどれだけ守っているか?ということが重要です。
これに加えて感染経路別予防策が3つあります
- 接触感染予防策
原則個室管理とし、患者体液に触れなくても手袋の装着(前後に手指衛生を実施)を行い、必要時にはガウン、ゴーグルなどの個人防護具(PPE)を装着し、患者の移送は制限し、使用する器具は患者専用とする。
- 飛沫感染予防策
患者を個室管理とするか、大部屋の場合にはベッド間隔を1mとする。特別の空調は必要としない。1m以内に接近する際にサージカルマスクを使用する。
- 空気感染予防策
病室を高性能フィルターにより陰圧に保つか1時間に6~12回換気を行い、医療者はN95マスクを使用する。
空気感染をする微生物は…と国家試験でも覚えましたね。例えば結核であれば、標準予防策に加えて、空気感染予防策をとります。繰り返しますが標準予防策に加えて、という点が重要です。
ここまでが「平時の」感染予防策です。よくご存じの方も多いと思います。
【経験的症候群別予防策】
本題の経験的症候群別予防策(Empiric and syndromic precautions)です。実はマスギャザリングイベント時だけではなく、アウトブレイクを起こさないために普段から大切な考え方でもあります。詳細は考えの元となるガイドラインを参照ください(Siegel JD, Rhinehart E, Jackson M, Chiarello L; Health Care Infection Control Practices Advisory Committee. 2007 Guideline for Isolation Precautions: Preventing Transmission of Infectious Agents in Health Care Settings. Am J Infect Control. 2007 Dec;35(10 Suppl 2):S65-164.)。
マスギャザリングイベント時に発生する患者の多くは、最初は検査結果が不明であることが多く、最初から感染経路別対策を適用することが正確にはできないですよね。特にICUなどの重症患者がたくさんいる所では検査結果が出る前から対策をしておかないと、検査結果が出てから隔離したのでは時すでに遅し、他の重症なICU患者にうつってしまっている、医師・看護師をはじめとするICU勤務者にうつってしまっている。→最悪ICU閉鎖!
こんな事態を避けるために患者の症候群から感染症(病原体)を予測して予防策を幅広く適用させるという考え方が出てきました。これが経験的症候群別予防策です。
マスギャザリングイベント時には特に、こういった患者が同時多発で運ばれてくる可能性が上がります。そのため、この予防策が有効となりうるのです。
ただ、マスギャザリングイベント時ではなく、個人的には平時からも我々のような救急患者や重症患者を診ている現場では役立つと思っています。救急患者や重症患者は詳細な病歴がとれないことが多く、「感染症っぽいが診断確定していない」状態で診療を始めなければいけないことが多いですよね。そんな時にも役に立ちます。日常診療での例をあげれば、咳、喀血などの症状から結核を疑うときは診断確定していなくても空気感染予防策をとりますよね。実はそれが経験的症候群別予防策です。
簡単に言えば、呼吸器症状なら空気感染予防策や飛沫感染予防策を、消化器症状なら接触感染予防策を…ということです。以下、各論です。
- 呼吸器症状の場合(急性呼吸器症候群)
ICUに入る重篤な呼吸器症状や急性呼吸窮迫症候群(ARDS)の場合、空気・飛沫・接触感染予防策全てをとり陰圧個室隔離対応とします。一般的な呼吸器疾患(レジオネラを含む細菌性肺炎、結核など)の鑑別にプラスαとして、MERS、SARS、インフルエンザウイルス、鳥インフルエンザウイルスなどのウイルス感染症を考慮します。
b. 消化器症状の場合(急性消化器症候群)
重篤な下痢・嘔吐の消化器症状に加え、循環不全、腎不全などによりICU入室する場合、接触感染予防策をとり、個室隔離が望ましいです。同症状患者が同時に複数いる場合は例えば2床部屋、4床部屋を同症状患者で隔離することも一手です。一般的な急性消化器疾患(食中毒を起こす菌、ノロ・ロタウイルスなどのウイルス性腸炎、西日本では重症熱性血小板減少性紫斑病(SFTS))を考慮し、中でも重篤化してICU入室することが多い腸管出血性大腸菌感染症に注意が必要です。
c. 皮膚症状の場合(皮膚粘膜症候群)
発疹、発熱を伴う意識障害や循環不全などによりICU入室する場合、接触感染予防策をとり、個室隔離が望ましいです。麻疹を疑う場合はa.急性呼吸器症候群の対応として空気感染予防策を追加、陰圧個室隔離います。このように、疑わしい場合は一つだけでなく追加する、というのもこの経験的症候群別予防策の考え方で重要です。一般的な重篤な皮膚粘膜疾患(壊死性軟部組織感染症、重症薬疹、肺炎球菌などによる電撃性紫斑、麻疹など)の鑑別にプラスαとして、髄膜炎菌性髄膜炎、マラリア、可能性は低いがウイルス性出血熱を考慮します。早期の皮膚科コンサルトも重要ですね。
d. 神経症状の場合(神経症候群)
重篤な意識障害、痙攣、発熱などによりICU入室する場合、標準予防策です。ただし、髄膜炎菌性髄膜炎を疑う場合はb.急性消化器症候群の対応として接触感染予防策と飛沫感染予防策を追加、個室隔離します。
e. 黄疸など肝臓症状の場合(急性黄疸症候群)
黄疸、発熱、倦怠感など重篤な肝不全でICU入室する場合、接触感染予防策をとります。一般的な黄疸を起こす肝疾患(ウイルス性肝炎)の中でも頻度の増加が想定されるA型、E肝炎には注意が必要です。
このような経験的症候群別予防策をとりながら、渡航歴、訪日外国人の居住場所、邦人には訪日外国人と接触があったか?など、国外からの持ち込みを意識した病歴聴取が重要です。なぜならば、その地域により病原体診断、鑑別診断が絞られる可能性が高いからです。病歴が詳細にとれないこともありますが、その努力は最大限にすべきです。特にオリンピックなどマスギャザリングイベント時開催時は、渡航歴の聴取は必須です。
経験的症候群別予防策を取っている間に、鑑別診断を行います。微生物的診断がつけば、その微生物による「平時の」感染予防策に切り替えればよいのです。診断がつくまでは経験的に考慮される疾患に対して抗菌薬や抗ウイルス薬などの治療を行い、人工臓器を用いて集中治療を行い、適切な診断・治療を行います。
【実臨床例】:酸素化不良で救命救急センター搬送、呼吸器症状から重症肺炎、また結核を疑い空気感染予防策、陰圧個室隔離を行い、細菌性肺炎に対して抗菌薬治療と人工呼吸管理を行っていた。結核は塗抹3回・PCRが陰性で否定され、喀痰培養から肺炎球菌が検出された。この段階で通常の標準予防策に切り替え、個室からオープンフロア管理とした。
→実はこれって日々よくやっていることですよね。こんなイメージでよいと思いますし、特にマスギャザリングイベント時、海外渡航歴が直近である方や外国人が来院した時には、より注意した方がよいと考えられます。
マスギャザリングイベント時だからといって特殊な感染症のみでなく一般的な病原体である可能性も高いので、「通常診療の鑑別診断+α」というイメージで、マスギャザリングイベント時に発生しやすい特徴的な病原体を「プラスで」考えるのがよいです。
病原体不明の場合や伝播リスクが高いと判断した場合、最寄りの保健所に直ちに相談することも重要です。必要な検体採取も保健所と相談するとよいです。病原体不明の場合にはICU入室時の血清、髄液、尿、便などを保存しておくことで後に検査を追加することができますので重要ですが、特に検体採取時、検体搬送時、検査部での検体扱いにはその感染性に留意します。
終わりに
なぜ耐性菌やMERS、SARSなどの問題が国際化しているのかというと、飛行機など移動手段の増加です。耐性菌やウイルスは飛行機など移動手段に感染者や保菌者が乗って移動することで、世界に広がっていきます。つまり現代病とも言えます。さらに今後国際化していく社会に向けて、危険な菌、ウイルスが突然皆さんの所に来る可能性が「どこにいても」あります。
来年の2020年東京オリンピックでは外国人が過去最大、3600万人/年間で来日すると言われています。耐性菌やウイルスが持ち込まれる危険性も過去最大級ということです。
自分の身を守るためにも、患者さんを守るためにも、ぜひ今のうちからこの考え方を意識して頂ければ幸いです。