日本大学医学部 救急医学系 救急集中治療医学分野

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ICU感染ラウンド

ICU INFECTIONS ROUND

ICU感染症ラウンド 第43回 第44回 第45回 第46回 第47回

第43回:2018年5月8日・第44回:2018年5月15日・第45回:2018年5月23日
第46回:2018年5月29日・第47回:2018年6月5日

「メロペンテイコ」だけじゃいけないワケ

「メロペンテイコ」(「メロペンバンコ」の施設もありますね)が使われることは重症患者では時にあります。が、ここぞ!という時に使うことがあるけれども、これに頼りすぎると重症感染症とうまく戦えません。
「カルバペネム耐性菌」は今後最も注意すべき耐性菌です。が、感染症的理由は次回以降にコラムにしたいと思います。 今回はエビデンスというより、重症感染症と戦う医師が陥りがちな「思考回路」に目を向けていこうと思います。概念ですね。一部、哲学、とも言えるかもしれません。
重症感染症、例えば敗血症性ショックで血圧60/20mmHgで今にも心停止しそう…という状況に陥っている時、救急医、集中治療医など臨床医としては、何とかこの患者を救いたい!と思いますよね。そもそもこの気持ちがなければ重症患者と向き合う資質が欠けているといえるでしょう。言い換えれば、その気持ちがあればまず重症患者と向き合うことができている、ということになります。
さて、何とか患者を救いたい!と思った時、救急集中治療医はその患者の「今」にフォーカスします。つまり、「今、この瀕死の状況から何とか抜け出したい!」と思うわけです。
「患者が瀕死だ」→ ①「今、抜け出したい」→ ②「メロペンテイコ」
この二つの の中に、思考回路の誤りが潜んでいると思います。

 

 

➀「今、抜け出したい」

瀕死の重症患者に向き合った時、「今、ここを抜け出したい」という思考回路は当然です。血圧60/20mmHgをどうにかあげなければ患者は心停止します。しかもその心停止までの時間は、自分の当直帯内の数時間であったりすることも多いでしょう。学年がたち当直責任者(オーベン)になれば自分が最後の砦であり自分が何とかしなければ、という気持ちが働いて当然ですね。

 

しかし、その目の前の重症患者は、「今」をしのげば救命できる、のでしょうか?救命できても、元の生活に戻れるのでしょうか?

 

重症患者には二つあると思っています。「今」をしのげば救命できる患者と、「今」をしのいだだけでは救命できない患者、の二つがあると思います。
前者の「今」をしのげば救命できる患者であれば、「患者が瀕死だ」→「今、抜け出したい」の→の思考回路としては正解でしょう(メロペンテイコが正解だ、とは言っていませんよ!)。今、抜け出す手段にのみフォーカスをあてれば患者は救える可能性がありますね。これは問題ありません。
問題は、「今」をしのいでも救命できない患者です。「今」をしのいでも、その先がまだ長い患者にとっては、「一時しのぎ」にしかなりません。当直でいえば、「自分の時に心停止にしたくない」となります。けれど、「自分の時に心停止にしたくない」というのは、果たして患者目線での思考でしょうか。自分目線になってはいないでしょうか。「患者を心停止にしたくない」というのと、「自分の時に心停止にしたくない」というのは、大きな違いではないでしょうか。
中長期的に患者を診る必要性、このことを我々救命医集中治療医は強く意識する必要があると思います。
関連する概念で、「Post Intensive Care Syndrome (PICS)」という、集中治療が終わってICUを抜け出した後に、中長期的に運動機能障害、認知機能障害、精神障害を起こし、長期予後に影響を与える(さらには患者家族にまで!)概念が近年提唱されています(Needham DM et al. Improving long-term outcomes after discharge from intensive care unit: report from a stakeholders’ conference. Crit Care Med. 2012 Feb;40(2):502-9.)。抗菌薬使用自体も関わっているのではないかと言われています。これを起こさないようにいかにICUでの治療を展開するか、これも今後のICUの大きな課題です。

 

 

➁「メロペンテイコ」

「メロペンテイコ」が許容されるシチュエーション、ってどんな状況でしょうか?
細菌からの側面でいうと、感染症が、ESBL含めた腸内細菌、緑膿菌など主に院内のグラム陰性桿菌(GNR)(頭文字をとってSPACE,ESKAPEなどと言いますね)、嫌気性菌、MRSAのすべてを同時に疑う状況、です。そんな混合感染ありうるのでしょうか。

 

あるかないかでいえば、レアですが「ある」でしょう。

 

例えば、入院患者で発生した壊死性軟部組織感染症です。私の個人的な10年のICU経験上、1例のみあります。混合感染がある、緑膿菌もMRSAも院内患者だから持ちうる、しかも壊死性軟部組織感染症は重症であるので外すと悪化→亡くなる可能性が高いからです。もちろん、抗菌薬だけではなくデブリドマンを緊急で行う必要があります。
また、元々ESBL産生GNRもMRSAも保菌していることがわかっている患者の重篤な敗血症性ショックです。ESBLもMRSAも保菌しているということは、(現在は)何らかの施設入所や入院中、また長期や頻回の入院歴がある、などであれば可能性は上がってくるでしょう。特に喀痰にESBL産生GNRやMRSAを両方とも保菌している場合の重篤な「肺炎」や、どこかに保菌している「重篤な中心静脈カテーテル感染」であれば考える必要があるでしょう。ただ、ESBL産生GNRやMRSAを保菌している患者が尿路感染症による敗血症性ショックであれば、MRSAは基本的に尿路感染症を起こさないのでメロペネムだけでよいでしょう。

 

問題は、レアなことをどこまで実行するか、です。

 

仮に上記シチュエーションの可能性が1/1000としましょう。この可能性1000例全てにメロペンテイコを使用していたら、1000回メロペンテイコを使用することになります。少し医学的に言うと、一人の患者を治癒させるのに必要な数、すなわちNumber Needed To Treat(NNT)は1000です。これはいい治療法とは言えません。患者を救えないどころか、当然、メロペネム耐性菌やテイコプラニン耐性菌が増えますね。
特に背景に色々な合併症を持っているICU患者、重症熱傷患者などに、広域抗菌薬を使用していると患者に住み着く菌がどんどん耐性化していきます。なるべく、この耐性化を遅らせる努力(=できるだけ狭域の抗菌薬で治療する努力)をする必要がありますが、これを怠っては目の前の患者を救命することもできません。
極端な話、脳出血で亡くなる方は他の患者や未来の患者に全く影響はないですが、耐性菌は「うつっていく」ので、他の患者や未来の患者にも悪影響が出る可能性があり、二重の辛さを味わいます。

 

「可能性」と言ってしまえば全て「可能性」になります。他の表現として「●●は否定できない」と言ってしまえば全て「否定できない」となります。
「否定できない」は、自分の診断、判断能力からの「逃げ」にはなっていないか(例:メロペン+テイコ以外の抗菌薬への知識の不足、推定する菌の知識の不足など)、これもまた自分で自分に問いかける必要があると思います。

 

つまり、「重症だから」、は理由にならないのです。菌の理由を考えた上で処方する、誰かに「なぜメロペンテイコなのですか?」と問われた時に「予測される菌が○○だから…」と、理由を答えられるようにしておく必要があります。

 

<これらの解決策>

➀について、我々はどう修練をしていけばいいのでしょうか?

「その疾患が改善する自然経過を知ること」
これを知れば、自然経過を辿っていないことに気づける、つまり何かしらの合併症なり問題が新たに起きたことをいち早く察知できます。そのため、早期対応ができ、合併症で重篤になる前に手を打てます。
自然経過を知るためには、その疾患に関して、「患者を診ること」です。「診る」が大事で、「見る」では自然経過を知るようになれません。診る、というのは、診察、モニタリング、採血などのデータ確認などを、まずは連日(ICUでは連時間、とも言うべきでしょうか)追い続けることです。私見ですが医師1~10年目くらいかこれに相当する時期でしょうか。
その次の段階として、「範囲内の想定」にすることです。この時期にはこの合併症が起きてくることが予測できるようになると、「範囲内の想定」になるので、「あ、これが起きたな」とすぐに分かるようになります。私見ですが医師5~15年目くらいかこれに相当する時期でしょうか。
さらにこれを突き詰めていくと、「自然経過+合併症の経過を知ること」ができます。こうなると、患者さんを連日診なくても、ほとんどのことが「範囲内の想定」になります。
上司の先生が診てもいない(本当は診ているのですが)のに、患者にへばりついている自分より正確にその患者をわかっている経験を若手の先生はお持ちではないですか?それは上記のことがあるからです。私も昔、「なんでこの先生は診てもいないのに分かるのだろう」と不思議だったことがあります。私見ですが医師10年目~20年目くらいが相当する時期でしょうか。

 

つまり、ファーストステップは「患者を診ること」これにつきます。

 

➁について我々はどう修練をしていけばいいのでしょうか?

「自己研鑽すること」
感染症で言えば、感染症の自己研鑽(勉強)です。言われれば当たり前なのですが、当たり前のようにできていない自分もいるのは(自戒も込めて)皆さんあるのではないでしょうか。調べようと思ったことを調べていないだけ、ならまだマシです。危険なのは調べようとも思わなくなってしまうことだと思います。
医学は今もこれからも発展し続けます。そのために自己研鑽し続けること、これが医師には一生求められます。立ち止まれば立ちどころに置いて行かれます。
これにはきちんと根拠がありまして、皆さんは、医学知識の総量はどれくらいのスピードで増えているかご存知でしょうか。恐ろしい(?)論文があります(Densen P. Challenges and opportunities facing medical education. Trans Am Clin Climatol Assoc. 2011;122:48-58.)これによると、1950年までにあった医学知識量が倍になるまでには50年かかったそうです。それが、1980年までのこれは7年になり、2010年までのこれは3.5年になったそうです。
では、2020年までのこれはどれくらいになるでしょうか?
73日です。えっ!?たった!?と思いませんか。
73日で倍に増えるということは、少なくとも自己研鑽し続けることは必要だと思ったとしてももはや呆然となるくらいのスピードですね。でも少なくとも自己研鑽しなければどんどん置いて行かれることは理解できるかと思います。

 

自己研鑽の方法ですが、「覚える」でいけるでしょうか?
日本社会はともすれば「覚える」ことを重視しがちです。大学までの受験社会がこうしている原因と思います。我々医師もそれを通っている人種なのでそれを重視しがちです。けれど、73日で倍になる知識を「覚える」のは無理だと思いませんか?少なくとも私は無理です。
では覚えられない以上、自己研鑽の方向性はどうしたらいいでしょうか?
方向性は2ステップです。

 

➀何が問題かを考え問題を明確にし
➁その問題の答えの情報を正確に素早く取り出すことができるか

 

この内容まで述べるともはや「感染症ラウンド」の域をはるかに超えていってしまうので、この辺までにしておきますが、今後の時代の特徴はこの2ステップでしょう。

 

個人的にはこの2ステップに加え、「教えること」が最大の学びのスパイスだと思っています。

 

自己研鑽、修練というと「つらそうだなー」とイメージする方も多いかもしれませんが、前向きに言うならば「知識欲」を持って調べ、解決という「満足感」を得る、ことが長続きするポイントだと思います。
「報酬系」という概念があり、知識欲や満足感はかなり上位の報酬系になるようです(ちなみに金銭は上位にはならないそうです)が、これも逸脱するのでまたいずれ機会があれば、にします。

 

 

今回は概念、哲学的なコラムでした。次回は最も注意が必要な耐性菌である「カルバペネム耐性菌」を感染症的側面から扱いたいと思います。

 

 

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